ツバメinfoの選手名鑑特集。石井弘寿は東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチ。現役時代は主にリリーフとして活躍していた。左腕から最速155㎞/hの剛速球で打者をねじ伏せる剛腕リリーバー。WBC日本代表にも選出されるなど、日本屈指の左腕リリーバーとして活躍したが、現役生活晩年は故障に泣かされ、長いリハビリ生活を送った。2011年に現役引退。左投左打。
目次
基本情報
選手名:石井 弘寿(いしい ひろとし)
利き手:左投左打
ポジション:投手
生年月日:1977年9月14日
年数:引退(2011年)
出身地:千葉県市原市
来歴:東京学館高校-ヤクルト(1995年4位)
身長体重(公称):180㎝100㎏
推定年俸
現役最高年俸は、06年の1億5,000万円(金額は推定)。
背番号
61(1996-2011)
98(2012-)
成績
通算
339試合 27勝15敗55S 426.2回 ERA2.66 WHIP1.15 奪三振485
主な球種
ストレート、スライダー、カーブ、フォーク
獲得タイトル
最優秀中継ぎ投手(2002年)
寸評
左腕から最速155㎞/hのストレートで打者をねじ伏せる、剛腕投手。
02年には最優秀中継ぎ投手を獲得し、05年には37セーブをあげるなど、球界を代表する左腕として活躍した。
04年アテネ五輪、06年WBC代表に選出されるなど、日本を代表する左のリリーバーであったが、故障に泣かされて現役時代の晩年はほとんどリハビリ生活となってしまった。
11年に引退後は、現在に至るまでコーチとしてヤクルトを支え続けている。栄光も挫折も味わった経験を、チームに還元している。
五十嵐亮太との「ロケットボーイズ」コンビ
2つ年下の五十嵐亮太 とは同時期に中継ぎ投手として活躍し、150km/h後半を誇る速球を武器に打者をねじ伏せる投球スタイルから、ファンの公募で「ロケットボーイズ」と名付けられた。
06年の肩の故障で、結果的にメジャーリーグ移籍の夢を断念することになった石井だが、その夢を継ぐように五十嵐は09年オフに海外FA権を行使してメジャーリーグに移籍。
五十嵐はメジャー3球団とソフトバンクを渡り歩いた後、18年オフにヤクルトへの10年ぶり復帰が決まった。かつて左右の剛腕投手として共に闘った両者も、長い時が経って今は一軍投手コーチと一軍投手の関係。
衰え知らずのベテランは、かつて共闘した石井弘寿投手コーチのサポートを力に、投げ続ける。
WBCで痛めた肩と長いリハビリ生活
2005年オフ、37セーブの好成績を残した石井弘寿は、憧れであったメジャーリーグ移籍を巡り、球団との交渉が難航していたが、残留が決まる。
同オフに開催されたWBCでは、シーズンイン前の3月に状態を上げるという難しい状況の中、肩の痛みに戸惑いながらも日本代表の責任を胸に、痛み止めを飲みながら我慢して投げ続けた。しかし、万全の状態でない中登板した一次リーグの韓国戦で、李承※(イ・スンヨプ、当時巨人。※は火へんに華)から逆転ツーランを浴びてしまう。二次リーグの舞台となったアメリカに移動するが、痛みは引かず、無念のリタイアとなってしまった。
検査の結果、腱板断裂と診断され、ここから石井の長いリハビリ生活が始まることになる。「投手に多少の痛みはつきもの。怪我を理由に言い訳をしたくない」と語った石井だが、もしこのWBCでの無理がなければ、彼の野球人生も大きく変わっていたかもしれないと思わざるを得ない。
リハビリ生活を「不揃いで小さな石を少しずつ積み重ねていく作業」と例えた石井だが、結局一軍のマウンドに投げられる状態まで回復することはなく、2011年に多くのファンに惜しまれながらユニフォームを脱ぐことになった。
引退した後も、ヤクルトには故障に悩まされた投手が続出する。由規(佐藤由規。18年オフに自由契約で楽天と育成契約。19年シーズン途中に支配下に返り咲き、一軍登板を果たした。)はその典型だろう。リハビリ生活で心身ともに苦労した石井は、リハビリに励む由規を親身になってサポートした。それだけに、由規の一軍復帰登板や、他球団での活躍は嬉しく思っていることだろう。
若手左腕に引き継がれている背番号「61」
現役時代の背番号は「61」。これは、当時チームの左のエースだった石井一久の背番号「16」をひっくり返した数字だと言われている。背番号「61」は引退後、新人の左投手が背負うことが多く、児山祐斗 (13年ドラフト5位。16年退団)、久保拓眞 (18年ドラフト7位)がその代表例である。
相川亮二との縁
東京学館高校時代には、1つ上には捕手の相川亮二(現巨人コーチ)がおり、二人とも高校から直接プロに入団した(相川は94年ドラフトで5位指名)。
相川はプロ入り14年目の07年オフにFAでヤクルトに移籍。古田の引退で正捕手不在だったチームの救世主となる活躍をすることになるが、高校の後輩・石井弘寿は先述した肩の故障で懸命にリハビリを行うが、一軍の公式戦に呼ばれることのないまま、引退試合を迎えた。
引退試合では、目標としていた先輩とプロ公式戦で初めてバッテリーを組み、打者1人を相手に三振を奪い、現役生活に幕を下ろした。
球歴
東京学館高校時代は甲子園出場はなし。それでもヤクルトのスカウトが素材に着目し、95年ドラフト4位で指名され、プロ入りを果たす。
ルーキーイヤーの96年に先発1試合を含む13試合に登板するも、その後は故障や制球難で中々一軍で登板する機会がなかった。一方で、打撃センスに光るものがあり、当時二軍監督を務めていた若松勉氏から打者転向を打診されたこともあった。
00年には先発投手としてシーズン入りするが、シーズン中盤から中継ぎに専念すると、自己最多の45試合登板を果たす。
01年からは中継ぎに専念し、39試合に登板してリーグ優勝に貢献する。02年はリーグ最多の69試合に登板し、自身初のタイトルとなる最優秀中継ぎ投手(当時はリリーフポイントでの評価)を獲得した。
05年は高津臣吾のメジャー移籍と五十嵐亮太の不調により通年でクローザーを任され、37セーブをあげる。オフシーズンには憧れであったというメジャー移籍を巡り、球団とポスティングシステムを利用してのメジャー移籍を直訴するも、残留となる。
06年のWBCで日本代表に選出され、急ピッチの調整を進めていたが、本戦期間中に左肩を痛めてしまい、戦線を離脱する。この故障が石井の野球人生に大きな暗雲を落とすことになり、結局同年は僅か11試合の登板に終わり、メジャーリーグ移籍を封印して左肩の手術を行う。
それからの石井の野球人生は常にリハビリ生活となり、08年に二軍で実戦復帰を果たすも、11年に引退を表明するまで一軍に呼ばれることはなかった。
引退試合では、リハビリで苦しむ石井を応援してきた多くのファンが見守る中、5年ぶりの登板を終え、怪我に苦しんだ剛腕左腕の現役生活の幕が下りた。
引退翌年の12年からは二軍コーチに就任し、17年からは一軍投手コーチを務める。一軍で活躍する栄光や、懸命のリハビリで苦悩した経験を、今でも現役投手に注入している。
プロスピA評価
2020年はTS第2弾として、最優秀中継ぎ投手を獲得した2002年モデルで登場。
2018年以来3度目の登場となる。
球威86Aは、ヤクルトでは現役OB含めて最高の数値。
ストレートの評価はSで、特殊能力は超剛速球。往年の剛腕で打者を手玉にとる様子を、ゲーム内で再現できる。
外部リンク
http://npb.jp/bis/players/01103882.html (NPB)
https://www.yakult-swallows.co.jp/players/detail/11407 (ヤクルト公式)
脚注
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2020年5月28日更新
執筆者:yoshi-kky