【選手名鑑・監督】高津臣吾/ヤクルト-シンカーを武器に日米通算313セーブを達成した名リリーバー-

高津臣吾
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ツバメinfoの選手名鑑。高津臣吾は東京ヤクルトスワローズの一軍監督。現役時代は主にクローザーとして活躍していた。代名詞のシンカーは速いものと遅いもの2種類を武器にした。世界を股にかけて日米通算313セーブを達成した名リリーバー。2014年から指導者としてヤクルトに復帰し、2020年から一軍監督。右投右打。

基本情報

選手名:高津 臣吾(たかつ しんご)
利き手:右投右打
ポジション:投手
生年月日:1968年11月25日(51歳)
年数:7年目(指導者として。NPB現役通算15年)
出身地:広島県広島市
来歴:広島県立広島工業高校‐亜細亜大学‐ヤクルトスワローズ(1990年ドラフト3位)‐シカゴ・ホワイトソックス‐ニューヨーク・メッツ‐東京ヤクルトスワローズ(2006-2007)‐ウリ・ヒーローズ‐興農ブルズ‐新潟アルビレックスBC(2011-2012)

コーチ歴:新潟アルビレックスBC(2012)‐東京ヤクルトスワローズ(2014-)
身長体重(公称):180cm75kg

推定年俸

8,000万円(3年契約の1年目)

背番号

22(1990-2003,2007,2020-)

11(2006)

99(2014-2019)

成績

NPB通算

598試合(17先発)36勝46敗8H(*)286S 761.1回 591K ERA3.20

(*)H、ホールドは制定された2006年以降のもの。

MLB通算

99試合 8勝6敗8H27S 98.2回 88K ERA3.38

獲得タイトル

最優秀救援投手(4回:1994年、1999年、2001年、2003年)

月間MVP(2000年5月、2001年8月)

主な球種

ストレート、シンカー、カーブ

寸評

2019年10月1日、監督就任会見を行う高津臣吾新監督(公式フォトギャラリーより引用)
2019年10月1日、監督就任会見を行う高津臣吾新監督(公式フォトギャラリーより引用)

世界を股にかけた名リリーバーが小川監督の跡を継ぎ、二軍監督から一軍監督に就任した。メジャーリーグを経験した監督としては、日本のプロ野球では井口資仁監督(千葉ロッテマリーンズ)以来2人目。背番号は現役時代と同じ「22」を再び着用。

同じく2軍監督から昇格した小川淳司・真中満は、2015年にリーグ優勝を達成する土台を作るなど確かな実績を残した。その当時1軍投手コーチを務めていた高津は、低迷していた投手陣を立て直した実績がある。

メジャー時代から親交があるという、齋藤隆 投手コーチを参謀に迎え、投手陣を再び立て直し、リーグ優勝に導けるか。

シンカーとの出会い

高津臣吾監督の現役時代の武器は、「シンカー」だろう。

シンカー(sinker)とは、利き腕と同じ方向にシュート回転しながら沈んでいくボールで、高津監督のようにサイドスローのピッチャーが主に得意とする球。

このシンカーに磨きをかけるきっかけとなったのが、潮崎哲也(当時西武)が投げていたシンカー。1992年の日本シリーズでヤクルトと西武が対戦したとき、当時監督を務めていた野村克也が潮崎哲也投手のシンカーを見て、シンカーに磨きをかけるよう高津に命じたという経緯がある。

従来投げていたシンカーは、ストレートと球速差がさほどなく、小さく曲がり打者をゴロアウトにとるような「シュート」と称されることもあった。それをさらに遅く、曲がりを大きくして空振りを誘うものに改良した。

この「大きく曲がるシンカー」を習得後、速いシンカーとの組み合わせで打者を抑えられるようになり、シンカーは高津の持つ武器へと変貌した。

采配の特徴

独立リーグ・新潟アルビレックス時代の2年目に選手兼任監督に就任。1年目にリーグチャンピオンシップで敗退したことで、「勝つことにとことんこだわる」と明言し、その言葉通り就任1年目にしてチームをリーグ優勝に導いた。

2012年は独立リーグの新潟アルビレックスBC、2017年からはヤクルト2軍の監督を務めていたが、NPB1軍で指揮をとるのが今年で初めてとなる。

若手にチャンスを与えて奮起を促す一方で、五十嵐亮太青木宣親 をそれぞれ投手と野手のキャプテンに任命し、石川雅規 に開幕投手を託すなど、チームの支柱的な役割は経験豊富なベテランに託している。

一方で、メジャー経験監督ならではの2番・山田哲人という攻撃的な打線を組むなど、革新的な一面もある。攻撃力偏重で守備力が脆いチームにおいて、どう指揮をとるのかにも注目だ。

現役にこだわり続けた晩年

2007年にヤクルトを退団した高津は、球団から球団職員として再雇用することを持ち掛けられたが、これを固辞。

2008年からアメリカ球界に復帰し、その後は韓国・台湾・日本の独立リーグなど世界のプロ野球を股にかける活躍をした。長年貢献した古巣に冷遇されたことを反骨心に変え、右腕を振り続けた。

そんな高津も選手兼任監督となった2012年限りでリーグ優勝を置き土産に現役を引退。試合後には”終球式”としてかつての盟友・古田敦也 がかけつけ、最後の一球を投じた。こうして現役にこだわり続けた高津臣吾の22年間のプロ野球選手人生が幕を閉じたのだった。

松井秀喜との因縁

1993年5月2日の東京ドームでの巨人戦で、プロ1年目の松井秀喜と対戦。インハイの直球をライトスタンドに叩き込まれたが、試合はリードを守り切った。これが「松井秀喜のプロ初本塁打」であり、「高津臣吾のプロ初セーブ」というメモリアルデーとなった。

実はこのホームラン、リードが開かれた展開だからこそ、あえて松井秀喜のインハイ打ちを試す投球でもあった。それでも「真ん中に甘くいった」と打たれたことに憮然としていた。この対決がその後長らく続く長嶋巨人と野村ヤクルトの因縁の象徴だったといえるかもしれない。

両者の因縁はアメリカにわたっても続いた。2004年の高津臣吾のデビュー戦、迎える最初の打者が松井秀喜だった。この時の対戦も長打を打たれるなど、日本時代のリベンジとはならなかったが、国境を越えたライバルとの対戦は見ごたえがあったことだろう。

1996年のオールスターでは、松井秀喜の打席で登板した、野手のイチローとして高津が送られた。この起用方法に、セリーグの指揮をとっていた野村監督は、松井の名誉を守るためと、代打に高津を送ったと後に語っている。間接的にライバルの名誉を守ったかたちになる。

球歴

プロ入り前

広島で生まれ育ち、幼少期は広島東洋カープのファンだったという。

広島工業高校では3年時に春夏連続で甲子園出場を果たす。高校時代に投げ方を下手投げに変更した。2番手投手だったものの、3年夏にエースの上田俊治(明治大学に進学)が体調不良で離脱すると、代役エースとして獅子奮迅の活躍でチームを甲子園へと導いた。

東都大学リーグの亜細亜大学に進学すると、同期の小池秀郎(元近鉄ほか)や川尻哲郎と共に、サイドハンドから放たれるシンカーボールを武器に活躍。

1990年ドラフト会議でヤクルトから3位指名を受け、入団する。ドラフト同期に岡林洋一(1991-2000)。

なお、高津の同期としてプロスカウトから抜群の評価を受けていた小池秀郎は、ドラフト史上最多8球団から指名を受けるも、意中の球団ではなかったとしてプロ入りはならなかった。

プロ入り後

1年目の1991年から1軍登板すると、1992年には先発11試合を含む23試合に登板。1993年には野村克也監督(当時)から抑え投手に抜擢され、56試合で20セーブをあげるなど、チームの日本一に貢献。

その後も4度の最優秀救援投手(1994年、1999年、2001年、2003年)を獲得するなど、ヤクルト黄金時代の抑え投手として活躍。1997年は不調で一時期は先発に回るなどして、抑えの座を伊藤智仁(現楽天コーチ)に明け渡すが、日本シリーズでは胴上げ投手になるなど、野村監督の長年の信頼を伺わせた。

2003年に佐々木主浩の持つ通算229セーブの日本記録を更新(当時)すると、同年オフにFA権を行使してメジャーリーグ移籍を表明。

2004年にシカゴ・ホワイトソックスと契約し、クローザーとして59試合に登板、19セーブをあげるなど活躍する。翌2005年シーズン途中にFAとなりメッツへ移籍。同年オフに退団し、古巣ヤクルト復帰が決まった。

2006年は48試合で13セーブをあげたが、翌2007年はセーブ失敗が目立ち、この年限りで退団となった古田敦也選手兼任監督と共にチームを去ることになった。退団の際には長年の功績があったものの、シーズン終了後に自由契約を言い渡されるなど、フロントとの確執が噂された。

翌2008年にはシカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶと、シーズン途中に韓国プロ野球のウリ・ヒーローズと契約。抑えとして8セーブをあげる。

2009年はサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結ぶも、メジャー昇格はなし。2010年は台湾プロ野球の興農ブルズ(現富邦ガーディアンズ)でプレー。26セーブをあげる。

2011年からは日本独立リーグの新潟アルビレックスBCに入団。2012年は選手兼任監督を務めてチームを初のリーグ優勝に導き、同年限りで現役を引退。背番号「22」は同球団の永久欠番に制定された。

指導者として

2014年からはヤクルトの投手コーチに就任。ブルペンでの球数制限を設けるなど、低迷する投手陣の立て直しに尽力し、2015年のリーグ優勝に貢献。

2017年から二軍監督を務め、若手の指導にあたる。2020年からは一軍監督に就任。

応援歌♪

歌詞

闘志燃やして攻めろよ 投打に輝き放て

勝利をその手で 掴み取れ

「ゴーゴーレッツゴー!高津!」

※監督として球場でどの応援歌が演奏されるかは今のところ不明。オープン戦では監督の応援歌は演奏されなかった。

MIDI

準備中

プロスピA評価

2019年TSとして登場。小さく曲がってゴロ打たせるシンカーと、空振りを誘う大きいシンカーの二種類がある。

特に大きいシンカーは他に投げる投手が少ないのもあって、かなり使い勝手がいい。中継ぎ適性がないのが起用面においてたまにキズ。

プロスピA-高津臣吾
プロスピA-高津臣吾
プロスピA-高津臣吾
プロスピA-高津臣吾
プロスピA-高津臣吾

外部リンク

https://npb.jp/bis/players/51553883.html(NPB)

https://www.yakult-swallows.co.jp/players/detail/10906(ヤクルト公式)

http://tsubamegundan.com/information.html (応援歌一覧。全国ツバメ軍団公式)

https://www.yakult-swallows.co.jp/photo (ヤクルト公式フォトギャラリー)

脚注

選手名鑑トップ
2020年6月14日更新
執筆者:yoshi-kky