ツバメinfoの選手名鑑。ペタジーニはヤクルトスワローズに所属していた内野手。2度の本塁打王などを獲得し、「愛妻家」でも知られるツバメ史上最強助っ人。左投左打。
目次
選手名:ペタジーニ(ロベルト・アントニオ・ペタジーニ・エルナンデス ROBERTO PETAGINE)
利き手:左投左打
ポジション:一塁手
生年月日:1971年6月2日
出身地:ベネズエラ
来歴:アントニオ・ホセ大‐アストロズ(1994ドラフト外)‐パドレス‐メッツ‐レッズ‐ヤクルト(1999-2002)‐巨人(2003-2004)‐レッドソックス‐マリナーズ‐レッドデビルズ(メキシコ)‐LGツインズ‐ソフトバンク(2010)
身長体重(公称):185cm84kg(2001年)
4億5000万円(2001年)
※NPBのみ
9(1999-2002)
13(2003-2004)
16(2010)
1999 .325(452-147) 44本 112打点 OPS1.146
2000 .316(484-153) 36本 96打点 OPS1.033
2001 .322(463-149) 39本 127打点 OPS1.099
2002 .322(453-146) 41本 94打点 OPS1.087
539試合 2308打席 .321(1852打数595安打)
160本 429打点 21盗塁 418四球 29死球 402三振 OPS1.091
837試合 3,496打席 .312(2830打数882安打)
233本 635打点 24盗塁 609四球 51四球 622三振 OPS1.035
MVP(2001年)
最多本塁打(1999年、2001年)
最多打点(2001年)
最高出塁率(1999年、2001年)
最多勝利打点(1999年)
ベストナイン(4度。1999-2002)
ゴールデングラブ(3度。2000-2002)
月間MVP(3度。1999年7月、2001年4月、2001年5月)
リーグMVP1度、最多本塁打2度など輝かしい実績でチームを勝利へ導いたツバメ最強助っ人のひとり。
ヤクルトには4年間在籍し、日本一に貢献するなどそのバットで多くのファンを熱狂させた。25歳上のオルガ夫人を溺愛する「愛妻家」としても広く知られており、現在でもときおりメディアで話題にあがるほどの愛妻家である。
ペタジーニの代名詞と言えば本塁打王を2度獲得したほどの長打力と勝負強いバッティングだが、特に四球を選ぶ技術に定評があった。
来日一年目の1999年に最多勝利打点(現在は廃止)となる17個もの勝利打点を記録し、セリーグの連盟表彰を受ける。ヤクルト在籍時点で4度のサヨナラ本塁打を記録するなど、勝負どころでのバッティングは見るものを魅了した。記録だけでなく、記憶にも残るというまさに名助っ人であった。
サヨナラ本塁打(ヤクルト公式)https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/archive/sayonara_hr
1999年の出塁率.469は歴代シーズン7位、2001年の出塁率.466は歴代シーズン10位と、NPB史上を見渡しても群を抜く選球眼で四球を選んでいた。同時期に活躍していたラミレス(2001~2007)もペタジーニの選球眼には驚き、大いにプレイの参考にしたという。
ペタジーニの四球と言えば、上原浩治(当時巨人)との対戦。上原のルーキーイヤーであり、ペタジーニの来日一年目であった1999年のこと。最多本塁打を争っていた松井秀喜に配慮して巨人ベンチから敬遠の指示が出た。上原自身はこの件でマウンド上で敬遠の指示が出たことについて悔しさを顕わにしてマウンド上で涙を流した。
今では「申告敬遠」の制度が導入され、見かけることのなくなったシーン。今なおこの事件については上原の精神を象徴するシーンであると同時に、敬遠せざるを得なかったペタジーニの打棒を印象づけるシーンともなっている。
ペタジーニと言えば25歳上のオルガ夫人を溺愛する愛妻家としても知られ、野球の実力以上といっても過言ではないほどの話題を集めた。
オルガ夫人は元々同級生の友人の母であったそうで、小学生時代の友人に遊びに行った際に一目ぼれをし、そのまま結婚に至ったそう。来日してからも25歳差夫婦はメディアの注目を集め、グラウンド外では愛妻家として話題を集めた。
時は流れて2019年、日本国内に「ペタジーニが不倫している」というゴシップが流れた。日本のテレビ番組「ジャンクSPORTS」ではこの事実をアメリカで現地取材していたのだが、事実無根であると共にオルガ夫人への変わらぬ愛を主張した。現在は現役生活に蓄えた貯金を元手に、オルガ夫人とアメリカで優雅に暮らしているそう。
ペタジーニの本職は一塁手であるが、ヤクルト時代1999年の数試合と、巨人移籍1年目にはライトの守備にもついた。
ヤクルト時代は特に無難といった守備だったが、巨人移籍後は送球面で派手な大暴投をするなど、変な注目を集めてしまった。
移籍1年目、2003年の中日との開幕戦でライトの守備につき、バックホームの場面でバックネットへ届こうかという大暴投でランナーの生還を許す。このパワフルな送球はファンの間で「ペタキャノン」と呼ばれ、外野手挑戦の難しさを象徴するシーンにもなった。
ペタジーニはアメリカで延べ6球団、メキシコで1球団、韓国で1球団、そして日本で3球団と、現役16年間で実に11球団もの球団でプレーした。
特に晩年は一旦現役を引退するなどしたものの、鮮やかに復活を遂げて現役最終年はソフトバンクでもプレーした。
39歳でシーズンを迎えたソフトバンク時代も往年の輝きは色あせることなく、2本のサヨナラ弾をふくむ10本塁打をマークし、多くのファンを熱狂させた。
1994年ドラフト外でアストロズと契約。
1994年にメジャーデビューした後、トレードでMLB4球団を渡り歩いて12本塁打を記録。1998年オフにヤクルトスワローズと契約した。
来日一年目の1999年から4番打者に定着し、松井秀喜の42本塁打を上回る44本塁打をマークし、最多本塁打と最高出塁率のタイトルを獲得した。4番一塁手での出場がメインだったが、5番を打ったりライトの守備につくこともあった。
来日二年目の2000年は全136試合で4番一塁手で出場。2年連続での打撃タイトルは逃したが、打率.316、36本塁打と高水準の成績をマークした。
来日三年目の2001年も4番一塁手としてチームの得点源になり、39本塁打127打点という成績でリーグMVP、最多本塁打、最多打点などタイトルを総なめの大活躍だった。
来日四年目の2002年も3年ぶりの40本塁打越えとなる41本塁打を記録するなど好成績を収めた。ただ、膝の故障や高年俸がネックになり、ヤクルトとの交渉が決裂。同年オフにヤクルト退団が決定した。この背景には、自身が死球を受けても相手に報復をしないなど、首脳陣への不満もあったと言われている。
ヤクルト退団後、巨人と契約合意。推定7億円という大規模な契約だった。巨人では一塁手に清原和博がいたため、主に外野手での起用となった。
移籍1年目の2003年はヤクルト時代から抱えていた膝の故障や、慣れない外野手が影響して規定打席未達と成績を大きく落とす。翌2004年も117試合の出場にとどまるなど精細を欠き、同年限りで巨人を退団した。
巨人退団後はMLB複数球団を渡り歩き、2006年に現役引退を表明。
2008年にメキシカンリーグで現役復帰すると、シーズン途中から韓国プロ野球のLGツインズへ移籍。2009年には26本塁打を記録するなど、打撃能力の健在をアピールした。
2010年シーズン途中に福岡ソフトバンクホークスと契約。2度のサヨナラホームランを記録するなど、10本塁打をマークする。同年オフにソフトバンクを退団となり、その年限りで再び現役引退を表明した。
(前奏:ここまで飛ばせロベルト ホームランホームランペタジーニ)
この一打に 夢と奇跡を
お前のバットに乗せ 大空高く
「ゴーゴーレッツゴー!ペタジーニ!」
(トーマス・オマリー流用)
2020年外国人OBで登場。プロスピAではこれが初登場となった。
ミートパワーが共にAのパワー型。称号次第でミートパワー同値も狙える使い勝手のいい選手。
守備面でも一塁手の守備に優れ、ライトを守ることもできる。
リーグMVPを獲得し、数々のタイトルを獲得した2001年モデルではなく、来日一年で44本塁打を放ちホームラン王を獲得した1999年モデル。
https://npb.jp/bis/players/31833888.html(NPB公式)
http://tsubamegundan.com/information.html (応援歌一覧。全国ツバメ軍団公式)
https://www.yakult-swallows.co.jp/photo (ヤクルト公式フォトギャラリー)
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2020/09/28
執筆者:yoshi-kky